フランク永井、逝く

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鈴虫の雄、最後の一匹が逝った。死ぬ間際は、よたよたとケース内を徘徊し、ろくに目も見えていない感じであったが、これでも鳴くのだ。羽を立てて。これはもう、メスを誘うための生殖のためのさえずりでさえなかった。実際、よたよたとそこらのメス鈴虫にぶつかっておきながら特にそれに反応するでもなくたまに気が付いたように鳴く。本来、じっとしているような虫が徘徊しだすともう、お迎えが近いというのは感覚で察知していたけれど、こんな今際の際にさえ鳴くのを止めないことには戦慄に似たものを感じた。最終的な死に際には立ち会えなかったが、徘徊に力尽きた時にもしくは鳴く気力も失せた時にぽっくり逝ったのかなと思う。たいした鈴虫であった。
フランク永井が亡くなったことはいろんな感慨がいりまじって一慨に言葉に出来ないのだけど、フランク永井が結果として駄曲を歌わずに済んだこと、平成ひと桁の歌謡曲衰退時代の駄曲サージに巻き込まれずに済んだことは結果的には良かったのではと思う。もちろん、(あの事件さえなければね)フランクにはまだまだ余力はあったし、まだまだ歌えたし、ものすごい名曲を生み出していたかもしれないことは想像に難くないのだが、作家陣、楽団の疲弊、衰退という逆境的状況で名曲を生み出すのは至難の業であったろうし、そうなると名曲どころか、今までのクオリティを維持し続けられたかどうかもわからないのだから。ちあきなおみの再評価の一因は引き際の見事さと共に、歌謡曲衰退による駄曲サージに巻き込まれずに、痛手を負わずにブランドを畳んだからだということをもっと理解しなくてはいけない。そう考えれば安易に「復帰して欲しい」とか「新曲が聴きたい」なんてことは口が裂けても言えないはずだ。もちろん新曲とこだわらずに、ステージに立って欲しいとかあるのだろうが、美しいものは美しいまま留めておくのもまたいいのではないかと思う。そういう意味でフランクは私の中で永遠に輝き続けるし、普遍、不動のままづっと存在しつづけていくわけだから。