BABELを見る

見終えて何かが残るような映画ではないけど、そもそも現実ってそんなに劇的なものでもないじゃない?淡々としているじゃない?そういう流れみたいなものは上手くできていると思う、といいますか、こういう伏線でストーリー展開していくのって、「24」とかあーいうドラマの影響なのかな?流行ってるのかな?同時に転がして要所要所で場面切り替えるみたいな。モロッコ、メキシコ、アメリカ、日本の空気感の違いみたいなのはほんと、見事に描かれているし、しかも、洋画の描写でありがちな「変な日本」みたいな違和感が感じられず、良くできていた。一番の要のタイトルであるところの「BABEL」ってのが、どの辺がBABELなわけ?ってなかんじで、BABELってのが確か、もともと人間は一つの言語で話していたけど、BABELを建てようとして神様が怒って言語をバラバラにしたっていう、その「言語の壁」みたいなのが描かれているのかな?とか、勝手に思いこんでいたのだけど、特にこの映画内でそういう「人種間の齟齬」みたいな展開は無いし、言葉が通じなくても言いたいことは伝わっているし、どちらかといえば、同族間で「お察しください」のしすぎて伝わらなくなってしまったジレンマみたいなのが強く描かれている。「英語が話せれば世界の何割の人と会話できるんです!」みたいなキャッチをよく見かけるが、そもそも、気が合わなければ、同じ言葉話せたって意思の疎通も容易でないし、会話も成立しないし、逆に水木大先生のように原住民の方々と即座にシンクロして永住を決意してしまう場合だってあるわけで、そういう意味では核心は言語ではなくもっとプリミティブな部分にあるのかしら?なんて思いながらも、やっぱり高度な精神活動をする上では言語って大前提なんだよなぁ~とも思う(言語なしに溶け込めるってのはもう、天才の域ですからね)。言葉の先入観が邪魔することもあるし、言葉で理解したと思っても誤解していることも多い。伝える気持ちが歪んでいればどんどん関係は歪む。極端な「言語の壁」や「人種の違い」を問題にしがちだけど、実はもっと身近なところに人間って片輪な部分を存分に残しているんですよってのを、やんわり描いているのかしらとか思った。違うか。もともと人間は一つの言葉で話していたんだから、人種や言葉がちがっても理解し合うことが出来るという希望を書いたのかな?あと、マンションの手摺り甘過ぎ。落ちる。